「キンちゃんが行く」Vol.
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「キンちゃんが行く」、このタイトルは某水泳雑誌で半年ほど連載されたドーバーを目指すキンちゃんの手記です。とても素敵なタイトルですし、連載も終わりましたから「借用しても良いかな・・・?」と思い、使うことにしました。
今回は「多忙」、「風邪」、「練習不足」など、絶好のコンディションとは言えない中の練習でした。それでもこの練習で「運命めいたもの」を見たようです。「2005年の思い出」なども必見です。
1. 記録
2007年3月13日(火)
淡島(09:38)⇒大瀬崎(12:54)=3時間16分
大瀬崎(12:54)⇒淡島(16:00)=3時間06分
往復合計記録:6時間22分
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天候も良く、 午前中は最高のコンディションだった |
2. コンディション
天候:晴れ
水温:14〜15.8℃
気温:12〜14℃
波高:0.5〜2.0m
風:Max:12m/sec
風向:南西
3. 言い訳
2月6日の海練習以降、2月14日に当「フジタヤ(和菓子製造販売)」の新店舗がオープンし、以来、仕事が忙しく、泳ぎに行く時間など無くなった。おまけに3月2日から風邪をひき、未だに治らない。この最悪のコンディションで沼津を訪れた。いつもなら夕方までには民宿「桂」に着くが、やはり仕事を途中で抜けることが出来ず、17時まで仕事をして荷造りし、桂で食べるつまみや食料などを買い込み、21時に待ち合わせの約束で、JR三島駅まで石井コーチに迎えを頼んだ。
地元岡崎(愛知県)では11、12日と霙(ミゾレ)が降り、それは、それはとても寒い日だった。
4. 新幹線
きっと桂のご主人もいつもの時間に待っているかもしれないと電話を一本入れ、新幹線の中も寒くて毛糸の帽子とジャンバーは着たまま。周りの様子を見ると会社帰りか出張帰りなのか、男性の団体がビールを飲みながら会社の愚痴を言っている。まるで居酒屋だ。負けずに私も「ビール!」と言いたいが、新幹線で寝てしまうといけないので、嫌でも聞こえる大声の雑談だけをダンボの耳のように聞き楽しんでいた。
その間、咳がコンコン、喉飴を舐めていた。三島駅に着くとコーチから「道を間違えた!」と電話が入り、「早く来てね。」と言う。とにかく寒くてしかたがない。待合室で私はテレビ見ながら待っていた。そこでも会社帰りで新幹線に乗る人達が和気藹々とビールを飲んでいる。「羨ましい・・・。」と横目で見ている私だった。
5. 民宿「桂」
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民宿「桂」のご主人と |
桂には、22時頃到着。「こんばんは。」とドアをあけるとスリッパが2つ並べてある。やはり私たちが最後のお客さんかと思いきや、「今日、明日は2人だけなのでゆっくりして下さい。“富士の間”です。あっ、そこにハッサクがあるので部屋で食べて下さい。見てくれは悪いけどけっこう美味しいよ。」、「すいません。夜分遅く2人だけのために・・・、ハッサク、ビールのつまみに頂きます。」と5つ貰った。
「明日の出発は今日ここに着いたのが遅いので、いつもより時間を遅らせ8時半に出ます。よろしくお願いします。」と言い、「昨日から風が強いから治まると良いね。今日の静岡は今年の今までで1番寒いよ。」、「そうだよね。岡崎なんか霙が降っていてすっごく寒かったよ。来る途中海を見ていたけど、少し波が立っているようだった。」と、会話は弾む。
その間コーチは荷物をセッセと降ろしていた。富士の間に入るといつものごとく暖房がかかって部屋は暖めてあり、ポット3本、湯沸しポット1本、ビールのグラス2つ、栓抜きなど、もう一つのチームワークが出来上がっている。
荷物を整頓し、今夜はビールを飲んで早く寝た。寒くて私は布団をもう1枚押し入れから出してかけ、「寒い、寒い!」と風邪薬を飲んで床に入った。しかし案の定、風が強くバタバタうるさい。今までにない突風だ。明日は風が治まりますように。
6. 13日の朝
何故か5時には目が覚めてしまう。まだ時間がある。気持ちを泳ぐ意識に高めなければいけないが、どうも思考力が低下している。咳が出る。頭が痛い。「飲み過ぎか?」、「はぁ〜、練習してない。」、「調子悪い。」、などなどマイナス面しか頭を横切らない。違うこと考えよう。そう、菊地さんが待っている。コーチも泳ぐことでサポートに来ている。今、会社では私がいない分、皆が頑張っていてくれている。そうドーバーの友達も私の練習日記、きっと楽しみに待っている。どんな体調になっても、どういう状況でも、ドーバーでは船が出る以上私は泳がなければいけない。気持ちを高めて行こう。
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栄養補給は長距離スイマーの必需品 |
栄養補給品は今回朝に作った。朝に使い捨てカイロを着けた感じも確かめる必要がある。毎回使い捨てカイロは30個使うが、モノによって最高温度や持続時間が少し違う。まあいろんな種類があるので買う時はいつも気を使う。
栄養補給品は今回、4種類の味を用意した。そしてその保温バッグの中にラノリンも入れた。ラノリンはこの時期、常温状態だとカチカチに固まって塗れなくなるからだ。
8時半に桂を出ようとすると桂の息子さんが「おはようございます。今日の波はどうですか?」と聞いてきた。「おはようございます。部屋から見た感じでは凪だけど、泳者に風は関係ないが、波は大好きな私だから荒れていても大丈夫だよ。帰りは16時か17時だからね!」。そう、息子さんもけっこう気にしてくれている。
7. 港
港ではもう船頭の菊地さんが待っている。「おはようございます。」との会話で1日が始まる。いつもながら菊地さんは元気で、私は元気をもらう。海を見ると汚い。「あの強い風で海が煮え繰り返った。」と思う。「2、3日前は16〜17℃だったが、今回の風で多分下がっているよ」。そうか、コーチにインターネットで調べて貰っても同じ水温を言っていたな。3月にしては水温が高いから、やはり私は異常気象だと感じていた。港では伴走船に「A旗」や「遠泳中」の旗が設置される。これは泳者にとって泳ぐ必需品になっている。これで完璧。いざ淡島へ!
8. 淡島
気が重い中、私は「泳ぐ自分」ではなく、「泳ぐのに導かれる自分」しかいなかった。モチベーションを高めよう。出来ない。「コーチ、今回はマイペースで泳ぐから。」と甘える自分しかもういない。
波は凪で風も吹いておらず、富士山が今までになく雲一つかかっておらず、くっきり綺麗である。「こんな日はめったにない。コーチにたくさん写真撮ってもらわなければ!」と、景色を見るだけでテンションが少しずつ変わって行く。
ホテルの前の桟橋には釣り客が一人もいないが、魚の釣れる場所がかわったのであろう。弁当広場(淡島の風下側)の方に移動していた。桟橋付近にはホテルで宿泊していた夫婦であろう。散歩をしながら仲むつまじく私たち船の方に顔を向け、「遠泳中、いったい何をするんだろう?」と、じっと見つめ「寒くないですか?」と大きな声で叫んでいる。
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品の良いご夫婦(?)に見送られる |
ちょうど私は服を脱ぎ出しラノリンを塗るところである。コーチは「こいつは“クルクルパー”だ!」と手で合図を送っている。「早くラノリン塗って!」もうこのラノリンを塗っている姿、何人の人が見たんだろう。これもパフォーマンスの一つになってきた。
スイミングゴーグルを海水で洗い、菊地さんと写真を撮る。「すいませーん、写真を撮らせて下さいませんか?」とコーチは夫婦に叫び、夫婦の撮影をする。そして「今日は富士山も応援しているよ!」と菊地さんが私を励ます。「そうだよな。こんな日はめったにない! 泳がなくっちゃ!」とテンションを高める。水温計をコーチが見る。「14度だ。」、「ああ、やはり下がったか!」、でも去年は14度で2回泳いだ私なら泳げる!
9時38分スタート満潮時分にスタートを切った。あいにく10時前。ホテルの窓から眺めるお客さんは従業員らしきネクタイを締めた人が1人。他には品の良さそうなご夫婦と、少し離れた釣人に見守れ、私たち海晴丸はスタートした。
9. スタート1ウェイ
天気は晴れ、気温12℃、水温14℃、波高0.5m、北の風、風速1m。凪である。マイペースで泳ぐ私、海水は冷たくない。順調な出だしであった。
40分、栄養補給、「ヌルイ!」と言うと、コーチが「蓋が半開きだったよ!」と言い返された。しまった。おっちょこちょいな私、しっかり蓋を閉めていなかったのだ。保温バックの中に栄養補給品がこぼれ、「またやったな!」と怒っているコーチの顔が見える。「だってキンだから仕方がないよーだ! ベー!」
私達は漫才でもやりそうな雰囲気に陥る。今日は釣客を淡島で見たせいか、沖にもたくさんの釣船を泳ぎながら見掛けた。でも1人か2人しか釣客は乗っていない。まだまだ釣れないみたいだ。
2回目の補給が終わってから海は一変した。南西の風、風速8m、向かい風、おまけに大きな向かい波。それでも大好きな波である。波を切って順調に進んでいる。ところが・・・。
泳いでも、泳いでもちっとも前に進まない。もうそこに大瀬崎が見えているのに・・・。どうも潮も逆潮に変わったみたいだ。補給をしているとき、風が無ければ関係ないが、強風は泳者より船に大きく影響を及ぼし流されてしまう。風下にいた私に船が寄ってきて、船の右で補給していた私が船の先端に回り左に回ってしまった。 調度良い。今度は船を左につけよう。それから船は今までの逆に位置づけて泳いだ。
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大瀬崎の折り返しは 思わぬ歓迎を受けた |
大体のパターンなら、淡島⇒大瀬崎は3時間弱で到着する。ところが大瀬に入る頃は南の風、風速12m、波高1mで3時間16分もかかってしまった。
「ヨッコラショ、ヨッコラショ」と丘に上がると私は非常にビックリした。この強風で海水が巻いているため透明度が悪い。今日はさすがにダイバーがいないと思っていたら、ビーチで15〜20人の若いダイバーが拍手をして迎えてくれたのだ。そうあの時、津軽海峡を泳いだ場面(2005年8月)と一緒であった。
「淡島から来ました。どうもありがとう!」とお辞儀をした。船ではコーチがカメラを持っており、「すいません。写真を撮らせて下さい。」とダイバー達と私は記念撮影をした。
「頑張ってね!」と応援の言葉と拍手と共に、「行ってきます!」とビーチを離れ再び泳ぎ出した。
10. 2ウェイ
泳ぎ出しても魚はほとんど見えない。いつもの透明度の良い綺麗な大瀬崎とは打って変わっている。魚なんて観ながら泳ぐなんてとんでもない。だからダイバーがダイビングしている様子など伺えるわけがない。
泳ぎながら私は「もうそろそろ補給の時間かな?」と計算していると案の上、補給が来た。投げられた補給の温度調整は海の中ではもうお手の物。ベテランさんである。でも合図が“ホーン”ではなく“笛”であり、コーチが首に吊す姿がわかった。とうとう半分壊れかけたホーンも本当に壊れてしまったのか? 寿命か? まだ大丈夫! 使えるように私がするから、コーチ捨てないでね。と、またまた船の中の様子がバタバタ状態。泳ぎ出した私は何があったか呼吸をするたびに船の様子を伺う。
今度はコーチがタモを持ち出した。またこの風で何かを飛ばしたに違いない。船は止まりいつもなら泳ぎ続ける私だが、「この前の水温計事件みたいに私が泳いで潜って拾わないかんかな?」と、泳ぐのを止め、船の様子を前の方で観察していた。「あっ、何かを拾い上げたみたいだ。ヨッシャー、泳ぐぞ!」船は私の横についた。またもや何を落としたか船を観察する。「ああ、あの白い髪が靡いている。帽子を落としたか! コーチよく落とすんだよな!」、「もうキンが洗濯挟みで帽子が飛ばないように作ってあげたお手製の代物どうしたんだ? 使わないから飛ぶんだよ。」と、心の中で呟く。
「行きは向かい波なら帰りは追い波のはずだ。よし、追い波が続く限りダッシュで行こう。せっかくの追い波、利用しないと損だもん。」と、頭の中はだいたい90分ぐらいは追い波が続く、と判断している。ダッシュで行こう。練習不足の私。どうなるかわからないが、波が続く限りダッシュで行こう。
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大好きな波の中を泳ぐ |
追い波と戯れながら、楽しくてしかたがない。まるで津軽海峡を泳いでいるみたいだ。息を吸いながら波を見る。「おおー、今度はこの波かい!」、次に来る波を予想する。「来た、来た、来た!」、予想道理である。泳ぎながら感じる。息を吸い、次の波は大きいから息を吸ってはダメだよ、次にしな。ヨッシャー、来た! 手を回さず波に乗れー! など、追い波はいろんな顔をして私とにらめっこをして淡島まで導いているみたいだ。
風は西南西、風速12m。水温は15.8℃まで上がった。
追い風の小型船は操船が非常に難しい。追い風により、それも南風により、船が到着地点の淡島に向くことはない。つまり斜め後ろから風によって押された小型船は、行き先とは違う方向に船全体の向きを取っている。普通なら泳者は船の横をぴたりと平行について泳がなければならないが、私は船首を見て泳ぐだけだ。いくら船が私から離れようとかまわない。
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旗はスイマーのためにも掲げるべき |
船頭の菊地さんの役目はいかに短距離で私を淡島に導くかである。それに信念をかけ、コーチも私も信念をかけている。船が離れれば私が近づけば良い。決して私が取り残されたわけではない。かえって泳者に近づいて誘導する船頭さんは経験不足である。常に私は遠泳中の旗、A旗を見ながら風向きをチェックし、どこを見ながら泳げば良いか判断している。これも今までの海練習が、このチームが何も言わなくても通じる証だとつくづく思った。
本当に強風である。さぞかし操船は困難だと思う。たまに菊地さんと目が合う。しっかり私のことも見ていてくれると痛感する。コーチは船の中でヨタヨタと何回も落ちそうになり、水飛沫がバチャンバチャンとかぶり、タオルで拭いている。船に積み込んでいるケースが右に左に行き、これを何回繰り返しただろうか? とうとう黙っていられず、泳ぎを止め、「大丈夫?」と私が叫ぶ。「心配しないで良いよ。大丈夫!」と声が帰ってくる。安心してまた泳ぎ出す。
今頃になって喉が痛み出す。泳ぎながら咳が出る。コーチに「喉飴!」と叫ぶ。コーチは荒れている海の船の中、左手をおもいっきり伸ばし、船に近づく私に「これを舐めれば咳も治まるよ。」と用意していた喉飴一粒を差し出す。その手が、私にはハゲジーのはずが、天使の手を見るように見える。その喉飴を手にし、口の中にそっと放りこんだ。これで咳も治まる。
この飴はプール練習の時にも舐めており、1粒が無くなるのは40分ぐらいだ。だから泳ぐ感覚も、飴玉1つで時間的なものは計算できる。
追い波は疲れを知らず私を淡島まで導く。計算だと行きが3時間20分であれば、帰りは4時間? いいえ! 徐々に私は欲を出し始めた。3時間ぐらいで泳げばベストタイムが出るのか? ずっと追い波、これを利用すれば良い線いくかもしれない。帰りは追い波によりダッシュが尽きることはなかった。時折、後ろから押し寄せる波に乗り、泳ぎを止め、菊地さんとコーチと心の中で「今の波は凄かったね!」と共有する。本当に、本当に津軽を泳いでいるみたいだ。
弱きになっていた私を助けてくれた津軽が、今こうして弱きになっている私をこの沼津の波が助けてくれたとも思った。だからこそ、だからこそ2ウェイのフィニッシュは、淡島の地に自分の両足を着け、片手を上げたかった。
淡島に近づいても波は私を後ろから押し寄せ、ちょうど干潮を迎えることはわかっていた。浅くなってもウニが少なければ必ずビーチに行きたい。そう思いながら船から離れ、一人淡島の丘に向かう。
浅くなるに連れ、石、岩はゴロゴロしている。もう手を回すことは出来ない。スゥーっと手を伸ばし、後ろから押し寄せる波に身体が当たらないようにビーチまで行くしかない。時折、「もう良いか?」と立ち上がり、石と石の間を歩くが、押し寄せる波に倒れ、まだまだ歩けないと四つん這いになる。それはまるで私がワニに変身したかのように、一つ一つの石を確認しながら、両手を右、左と、前へ、前へ持ち進んで行った。立とうと思っても足場が悪い石ころの中、何回この大きなお尻を上げた四つん這いのワニ姿を船から見続けられただろうか・・・。いずれにせよこの上がり方は、サイパンのダイビングで習った潮に流されないように上がる方法だ。何が役に立つかわからない。海を泳ぐ泳者は泳ぎだけじゃなく、海に関連するいろいろなスポーツをやっていた方が良い。
菊地さんは「戻って来た方が良いじゃないか?」とコーチ聞く。「本人に任せます。」とコーチは答えた。そう、私には今回、なぜだか「このビーチに上がりたい!」という気持ちでいっぱいであった。
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耳栓は、低水温での 長距離スイマーには必需品だが・・・ |
ここで3分ぐらいは立ち往生したが、6時間22分。大瀬崎から淡島までは今までにない3時間06分というベストタイムを出し、合計記録が6時間22分という、2月6日の自己ベストと同タイムであった。
11. 淡島ハプニング
たどり着いたは良いが、私はこの押し寄せる波に船まで泳いで戻ることは怪我をしかねないと判断し、丘から船に乗ることにした。だが今まで丘から船に乗ったことはないし、淡島見学などもしたことがない。地理などちんぷんかんぷんである。
船から大声で「トンネルをくぐって裏の船着場まで行きなさい!」と指示が出たらしい。しかし何せ耳栓している私、「裏の船着場まで行け!」としかわからない。とにかくこの遊歩道を歩けば船着場まで行くと信じ、指示されたトンネルとは反対方向に歩いてしまった。
裸足でスイミングキャップを被り、スイミングゴーグルをつけて、水着1枚で島を歩き出した。ホテルのレストランはカーテンがしてあり、走っている自分に気がつく。「まだ元気があるじゃないか!」
ふと下を見ると毛虫みたいな黒い小さな虫がヒョコタン、ヒョコタンと這っている。「踏んだら痛いだろうな・・・」と思い、必死で船とすれ違わないように、地面と海を見ながら歩いていた。
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この写真、夏に撮ったのではありません |
前からは釣客、若いカップルなど、5つ以上のグループにすれ違ったが、誰一人として声はかけてくれず、すれ違ったと同時に後ろを振り向き、「あの子、水着だよ。」と聞こえる。私のいでたちを見ては誰一人として声がかけられないらしい。今の時期、水着1枚の夏スタイルで歩いていたら、当然と言えば当然かもしれないが・・・。
声がけをしてくれそうな雰囲気でもしてくれれば真っ先に自分から、「船着場は真っ直ぐ行けばありますか?」と聞いていた。大ごとにしたくはない。
淡島はリゾートアイランドのようで宿泊や観光設備が整っている。後から聞いた話では、島の周りは4kmあるらしい。かなり歩いたな。裸足で歩いても掃除が行き届いているので痛くないし、水着姿でも気温が14度のせいか寒くない。
歩くに連れて何だかレストランらしき建物の横を歩いていた。淡島の観光船が走る。船の後ろには男の人が5〜6人並んでいた。きっと「変な人が淡島にいる!」と見ているに違いない!
イルカの調教をしている。三津シーパラダイスはバスの終点で知っているが、ここでもイルカが見られるのかと、今までにない風景に楽しんでいた。その横は船着場。辺りを見回しても菊地さんの船はなく、どうしようかと路頭に迷っていると、さっきのイルカを調教していた、ものすごくカッコイイ男性が「どうしたんですか?」と声をかけてくれた。
今まで数人の人とすれ違ったのに誰一人として声をかけてくれなかったが、この方は親切であった。「大瀬から泳いで来てレストランの前まで来たのですが、波が高くて船まで戻れず、“船着場までおいで!”と言われて来ました。でも違うみたいですね。他にもありますか?」、「もう一つ向こうにありますよ。寒いでしょ。何か羽織るものでも?」、「大丈夫です。寒くありません。船は小型で紺と白の旗、A旗を掲げています。」
ものすごくカッコイイ調教師さんと私はもう一つの船着場まで歩く途中、前から来るホテルの制服を着た自転車に乗っている方にお会いした。「あー、いた、いた!」と、私を捜している様子だった。そして菊地さんの船が近づいて来て、「あそこの船着場に行きなさい。」の指示により、菊地さんの船は移動していた。でもコーチの姿は見えなかった。
いちおうカッコイイ調教師さんには「インターネットで“地球の泳ぎ方”を見て下さい。」と告げると、「何処から来たのですか?」と聞かれた。「愛知県です。」と答えたが、「そんなに発音に三河弁が入っていたのかな?」と思った。
船に上がって長靴を履き、向こうを見るとコーチがトコトコ歩いて来るのが見える。手には私のビーチサンダル、検査着、スイミングコートと水筒を持っている。途中、コーチは「釣師に間違えられた!」と言っていた。それでも無事に3人が船着場で会えてホッとした。なかなか出来ない淡島1週のハプニングでもあった。
この時の状況を船に乗っていたコーチにも書いてもらおう。
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淡島の航空写真 北側の黄色いところが到着地点 |
淡島は、ちょうど電球を寝かせたような形です。横から見て海側(大瀬側)とその反対の陸側(三津浜側)があり、電球の金属部分がホテルに当たります。出発・到着地点はちょうど電球の金属部分に当たるホテルの海側です。
海側にもホテルの前に小型船が接岸できる岸壁がありますが、強風が海側から(大瀬崎方向から)吹いているため波が荒れ、接岸は無理と判断しました。そしてこの強風を避けるためにホテルの陸側、つまり電球で言う金属部分の反対側に行こうと思ったわけです。
淡島電球の金属部分とガラス部分の接合してあるところにトンネルがあって、これを潜れば簡単に反対側に出られます。上陸したキンちゃんには大声で「トンネルを抜け、反対側に出るように!」と指示を出しました。キンちゃんからは大きく両手で「OKサイン」が出たので、我々は金属部分の沖合から淡島の反対側に出て岸壁に接岸し、キンちゃんが来るのを待ちました。
ところがキンちゃんはガラス側の遊歩道を歩いて反対側に出ようとしていたのです。
我々が待てど暮らせどキンちゃんの姿が現れない。トンネルを抜けたらそんなに時間が掛かるわけもない。接岸したときにホテルの案内の女性がやって来て、どうしたのか聞いてきます。我々が説明すると、その女性はキンちゃんを探しに行ってくれました。また痺れを切らした菊地さんも「探しに行く!」と出て行きました。
「水着1枚で裸足では“寒かろう”、“痛かろう”」と、キンちゃんの服やサンダル、お湯の入ったポットとコートを持って私は上陸しました。
そのうち菊地さんが、「どうも遊歩道を通って歩いて行ったらしい。島の外周は4kmもあるんだ。こいつは大変だ。もう少し向こうにも岸壁があるので、船を向こうに回すわ!」と息を切らせて言ってきた。
「わかりました。じゃあ私は彼女とすれ違うといけないので、歩いて逆コースで行ってみます!」と電球側をキンちゃんの足取りと逆コースで行ったのです。まあ何とか会えることは会えたのですがね・・・。
12. 見知らぬおじさん
無事に港に戻ると「近所のおじさんかしら?」と思う人が船から降ろした荷物を見続け、私の服が入った青いビニール袋をつっつき、「アワビは獲れたか?」だって! 「これは私の服です。今、淡島と大瀬崎の間を往復泳いできたのです。私は海練習をして来たのです。」、「そうか、頑張ってね。」と、私を海女と間違えたらしい。
民宿「桂」では私の帰りを待っていたかのようでお風呂は“女性専用”の札が掲げてあり、早速お風呂に入り、ラノリンを落とし、海で使った品々の後片付けを始めた。
そして「晩餐の会」で菊地さんの家にたどり着いたのは、19時であった。
13. 菊地家「晩餐の会」
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菊地さんの奥さんは料理が上手! |
菊地さん達は「私達が寝てしまったか?」と首を長くして待っていてくれたみたいだった。「遅くなってすいません。こんばんは。今日はありがとうございました。」の挨拶で、「お疲れ様でした!」の乾杯が始まる。
お母さんの手料理が10種類以上並び、いつも美味しくてたまらない。「お袋の味」兼「料亭の味」と言っても過言ではない。食べたことない手作りの料理が並ぶ。
今日の海であったことを、お母さんとも交えて「こんなことがあったんだよ。」とか、船で菊地さんとキンは知っていて、コーチが気付かなかったことや、「あのときは、ああだった。」とか、お互いに知っている、知らなかった状況を話し合う。やはり話さなければわからないことは多い。
いろいろな話の中で共通することは、「菊地さんは優秀な船頭さんだ!」と言うことだ。あのずっと続く追い波、追い風の中を操船するのは並大抵の腕では出来ない。風波で押され、翻弄する船を、クルマで言うならアクセル、ブレーキ、ハンドルを多用しながら凍った坂道を降りてくるようなものだ。増してや泳者の速度に合わせなければならない。普通ならすぐに遠泳は中止になると思う。その波の操船をこなした菊地さんは、日本一の遠泳伴走の操縦士だと確信した。
このような素晴らしい環境を与えてくださった方々に感謝するが、一方では全てが万事、協力的であるわけでもない。「出る釘は打たれる。」、だが打たれっぱなしで沈んだ釘は、木の中で腐ってしまう。打たれても、打たれても私は負けない。どんどん伸びて、伸びて、伸び続けるんだ。そして頂点に立つんだ!
14. 2005年の思い出
不思議と今回の遠泳はテンションが下がっている私に富士山が励まし、桟橋にいた夫婦が励まし、ダイバーが励まし、淡島の人達が励まし、そして私の大好きな海が励ましてくれた。いつもこんなに人とは接触しないが、何だか全体が津軽海峡を泳いで自分を取り戻した時に似ていた。何か「運命めいたもの」を感じる。自分の意図とは無関係に、運命の糸が私を操る・・・。それは2005年の出来事で、私の人生の中で最も印象的な年でもあった。
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アリソン・ストリーターと(2005年) アリソンは3Wayも含めて40回以上の ドーバー世界最多横断泳者として ギネスブックにも載っている 「チャネルクィーン」 |
この年も私はドーバーの2ウェイを目指していた。そんな私に石井コーチは「ホップ、ステップ、ジャンプ」の要領で、「津軽1ウェイ(5月)、ドーバー1ウェイ(7月)、ドーバー2ウェイ(8月)」とプログラムを組んでくれた。ところが5月の津軽は天候が悪く、約1週間の滞在で一度として海に入ることすらなく終わった。津軽の海は私に背を向けたのである。
続いてドーバーの1ウェイである。これは7月14日に17時間03分で成功させた。これで日本人としては12番目(女性では5番目)のチャネルスイマー(ドーバー海峡完泳者)になったし、この日泳いで成功した全ての泳者の中で私はトップの記録だった。だが私自身が満足できる泳ぎは出来ていなかった。
続いて8月2日、本命の2ウェイを目指した。今度は13時間41分でフランスを折り返したものの、疲労、寒冷、眠気、持病の大腿部痛のため蛇行泳が始まり、オブザーバーに“危険だ”と判断され、17時間33分で断念した。
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ビンに入ったヴィサンの砂とドーバーの石 (私の宝物) |
その数日後、「ヴィサン(フランスの私が折り返したビーチ)に砂を取りに行こう。」とコーチに誘われ、ドーバーを渡るフェリーに乗った。そして自分が泳いだ海峡を眺めていた時、知らず知らずに涙が溢れ出し止まらなくなった。この止めど無く溢れる涙は念願だったドーバー2ウェイの失敗に対する自分への悔しさ、悲しさ、未熟さだった。「持病を持つ私の足では二度とドーバーを泳ぐことは出来ないのか!?」、「私は遠泳に向いていないのか!?」など、いろいろなことを考えると自信喪失になり、ただただとても悲しく、ドーバーの波を見ても「また泳ぎたい!」とは思えなかった。敗北した自分しかそこにはいなかったのである。
顔面から出る水分(涙、鼻水、よだれ)は全てコーチの服で拭いてやった。コーチの服はビチョビチョになった。それでも許してくれるコーチだが、私が泳ぎをやめることは絶対に許してはくれない。その後ドーバーで残った滞在日は、次の津軽のための練習に当てられた。そう、コーチはまるでこうなることがわかっていたように、ドーバーに来る前に5月に出来なかった津軽を8月の末に泳げるよう準備を進めていたのだ。
それでも津軽は天候が悪かった。北海道には来ないはずの台風がやってきて「嵐を呼ぶ女だ!」とコーチに言われたりした。日程は過ぎ、「5月の二の舞いか?」と思っていた矢先、「天候が好転しそうだ。」と津軽の船頭、安宅さんに言われた。「ヨッシャー!」と荒れた海での練習になった。たった1時間泳いだだけだがこれが私の津軽デビュー泳。
このときが今回の淡島〜大瀬崎の海と似ていたのである。大波に押されて泳ぐとまるでボディサーフィンのようにグングン進む。「こいつは面白い!!」と調子に乗って泳ぐと、安宅さんの船から簡単に50mは離れてしまう。「オーイ、オーイ!」と呼び戻されてまた泳ぐ。
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自信を取り戻した津軽の海 |
今度は大波で流木が私の背中に乗っかった。これが泳いでも、泳いでもなかなか離れない。船の上では安宅さんが「二宮金次郎みたいだ!」と大声で笑った。そんなこんなのデビュー泳だが、これを見た安宅さんは私の泳ぎを知って安心したようでもあった。
そして8月30日、11時間36分で完泳したのだ。この遠泳は面白かった。海を見ながら波を肌で感じ、「来た、来た、来た、来た、これだぁ〜!」と息を吸いながら「次はこの波だぁ〜!」と楽しんで泳ぐ。「嵐を呼ぶ女(私)」の波はハンパじゃない。途中、「カルマン渦」と呼ばれる速い潮の境で生まれる渦の中も泳いだ。今度の津軽は微笑んでくれたのだ。
ゴールのときはいつの間にかゴーグル内に入った海水で左眼はほとんど見えず、右眼で誘導してくれた船の岸よりを見ると、岸では20人くらいの人が私を待ってくれている。見える眼からも見えない眼からも自然と涙が溢れた。念願の、念願の津軽海峡を泳いだのだ。「皆さん、夢の津軽、津軽海峡を泳ぐことが出来ました。ありがとう!」と、御礼の挨拶をした。
知らせを聞いて駆けつけてくれた安宅さんの親戚から花束を受け取る。こんな経験は初めてだ。端っこの方に安宅さんの奥さんも双眼鏡を首から下げて嬉しそうに立っている。縁の下の力持ち、陰の立役者のお母さんと握手をした。
こんな状況を今回の大瀬崎の折り返しで思い出していた。
とにかく津軽の海は優しく豪快に私を迎えて入れてくれた。思いきり泳ぎ、思いきり波と戯れ、いろいろな顔を見せくれ、楽しくて、楽しくてもう仕方が無かった。ドーバーでの憂さを津軽で爆発させたのである。もう一度ドーバーで学んだ全てを発揮し、自分を試してみたかった気持ちは、「いろいろな海を泳いで自分を磨きたい。」、「もっともっと泳ぎの教えや海の自然を身につけたい。」と言う前向きな「オーシャンスイマーとしての自信」へと、変化させてくれていったのであった。
津軽で思いきり泳げたことが、それまでのドーバーの船で流した涙、混沌とした自分の暗い気持ちに句読点が打て、気分が一気に晴らされて新たな自分の発見、新しい自分への移行へとつながって行ったのだ。これほど「津軽に来て良かった!」と思ったことはなかった。
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(2005年8月30日) |
ドーバーで私は多くのことを学んだ。しかし、それはいとも簡単にドーバーによって切り取られようとしていた。きっと津軽を泳がなければ、ずっとその尾を引いたまま「泳ぎたい!」と思う気持ちの糸が切れていたかもしれない。ドーバーでの苦い経験が時間と共に和らぐ前に、反省出来る点を自分自身の身体に叩き込んでおきたかった。きっと津軽の神様は私が遠泳をやめる決意を許さなかったのだろう。おそらくドーバーの神様と結託をして、再び2ウェイをチャレンジさせるため、こうなる結果を始めから予測して「更に修行を重ねなさい。」と、糸を切らさないために5月の津軽を今回まで順延して下さったのだ。
この海の神様の見えない演出の糸に、私はマリオネットのように踊らされていたような気がしている。海は何処もいろいろな顔をしている。同じ海でも表情はいろいろ変化する。たまたまドーバーを泳ぎ、たまたま津軽で泳ぎ、たまたま他の海を泳ぐ。何処も「一回泳いだからもう良い!」なんてことはない。海は喜怒哀楽なのか、いつも別な表情を見せてくれる。そう、遠泳は何が起こるかわからない。そんな海の魅力に、私は"とりこ"になっている。
ドーバーの石とヴィサンの砂を1つの小さな瓶に入れて私の本棚に飾った。この瓶には私の想いが込められている。お金では買えない大事な、大事な瓶になったのだ。
これで2005年は終わるが、話はまだ終わらない。この首の皮一枚まで“気力”をもぎ取られたドーバーで、今度はドーバー泳を公認する団体から私へ「2005年の女性による水泳で最も価値がある賞」として「ガートルード・エーダリ賞」を受賞した。
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成田空港にクリスタルトロフィーを 持って来てくれたリックと |
これは2005年に泳いだ泳者の表彰を、翌2006年3月にドーバーの市内で行われるのだが、団体の理事であるリックが母国オーストラリアに帰る途中、わざわざ成田空港までそのトロフィーを持ってきてくれた。
ガートルード・エーダリはアメリカ人で史上初の女性チャネルスイマーだ。